静かでレトロな空間「四国村」へ
屋島の麓には、四国村という江戸~大正期の古民家を移築して展示している野外博物館がある。
四季折々の緑や花々を楽しみながらレトロな雰囲気を楽しむことができる。
また、安藤忠雄氏設計の美術館、四国村ギャラリーにはロダンやピカソの作品があったり、村内には流政之氏の作品も展示しているとても魅力的なスポットなのである。
流政之氏関連の項目は、
■流れ坂
■四国村石碑
■茶堂
■四国村ギャラリー
■染が滝
を参照されたし。
▼私は流政之氏の作品巡りをしている。
浜田の泊屋(とまりや)
料金所。
黒潮に鍛えられた土佐の若者組の宿泊所らしく、自然木の柱をふんばり、たくましい姿をみせている。高い床は南国の青年たちの理想を象徴しているようにもみえる。入母屋造桟瓦葺高床式(いりもやづくりさんがわらたかゆかしき)。
土佐には若者組があって、男は15才になるとタノミザケを一升持参して仲間入りし合宿して鍛えられた。男は六尺の赤ふんどし、女は14才から腰巻きをしたという、いわば一人前の男女となったしるしだった。夜は泊屋に集まって先輩から、性教育をはじめいろんな教育を受けた。祭礼の時は行事の中心になった。
火災、船の遭難、急病人などの非常時には大活躍をした。その泊屋も、今はほとんど姿を消した。
これは宿毛市(すくもし)にある、国の重要有形民俗文化財を模したものである。
流政之氏の「流れ坂」
写真右は前述の「浜田の泊屋」で料金所。
私が崇拝している流政之氏の「流れ坂」は、料金を払わなくても鑑賞することができる(笑)。
祖谷のかずら橋
徳島県祖谷地方は、けわしい山に囲まれた渓谷で四国の秘境と呼ばれる。平家の落人村としても知られている。深い谷間を流れる急流が、村の交通を分断していた。いつのころからか村人が、山に自生している白口かずらを編んで、つり橋をつくることに成功した。これによって困難を極めていた対岸との往来が容易になった。いま残っているのは1本だけで、3年目ごとにかけかえられる。日本三大奇橋の一つで国の重要有形民俗文化財に指定されている。
この橋は祖谷地方の技術保持者を招き、材料も本場のものを使って使って完成した。
祖谷のかずら橋
ゆらゆらゆれど
主と手を引きや
コワクない。
と民謡にあるように、いつもゆれている。
あの・・・結構怖い・・・
私にとっては、対岸との往来を容易にしてないんだけどね・・・
大丈夫、迂回路もあるよ。
メダカさんがピチピチ泳いでいる。
小豆島農村歌舞伎舞台
お正月仕様になっていた。
島の人たちにとってたった一つの楽しみ、春秋の祭りに開かれた島歌舞伎の舞台がこれである。
寄棟造茅葺、部隊の間口は六間(12メートル)。回り舞台は直径二間半(4.7メートル)。上手には義太夫の座とお囃子座が二段にある。ほかに楽屋。
建造年代はよくわからないが「文久3年(1863)亥吉日。片岡市朝祭礼振付仕候」と墨書きがあるので、江戸時代末期のものであろうか。役者は地元の農民であった。
きびしい労働に明け暮れた島民にとって、島歌舞伎はどんなに待ち遠しかったことか。村民あげての声援に、役者も熱演したことであろう。見物人の歓声が聞こえるようだ。
小豆島の猪垣(ししがき)
山地の農民にとって獣類の被害は恐怖であった。猪垣は山畑の農作物がイノシシや、シカに食い荒らされるのを防ぐために、畑の周辺を囲う垣根である。地方によってはシシカベともいう。
分布は広く、その規模は大小さまざまであったが、小豆島や阿波の南方は比較的長大であった。
これは小豆島の三都半島(みとはんとう)にあったもので粘土に松葉を入れてつくってある。
なお、当四国村には徳島県の脇町及び一宇村(いっちゅうそん)で使われていた「猪垣」も復元しており、その地方の附近で得やすい材料を巧みに利用した生活の知恵をしのびながらご覧いただきたい。
旧山下家住宅(県指定有形文化財)
1月だというのに早くもロウバイさんが咲いていた。
江戸時代の東讃岐の古風な山村農家である。寄棟造茅葺11坪。下屋まで茅を葺き降ろしてある。棟抑えに雁ぶり瓦を置き、棟の中央には茅葺の「煙出し」が設けてある。俗に「周囲(ぐるり)八間」と呼ばれた小規模なつくりである。
半分は農作業用の土間にとられ、ここに唐臼がある。「おくどさん」と呼ばれるかまどを焚くと、家中が煙に包まれた。床の部分はすべて家族共同、大家族のため夫婦生活も不自由だった。「よまし」と呼ぶ麦ばかりの飯を食べ、朝星夕星を頭上にいただいて、働きどおしだったそのころの苦労がしみこんだ民家である。
しかし親子兄弟が同居しているため、家族の情愛はこまやかで、一家意識が強かった。家族が争うのはもっとも恥とされた。
大阪城残石
大阪の陣で落城した大阪城の修復のため切り出され使われることなく放置された石。
「福島正則丁場」「小豆島出」と書かれてある。
福島正則さんは賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)と呼ばれ、豊臣秀吉に仕えた武将。
小豆島には道の駅「大阪城残石記念公園」がある。
この関係をまた調べておく。
繕われた足袋
この下には・・・
まったく不明・・・
これもまた次回の宿題だ。
旧河野家住宅(重要文化財)
旧河野家住宅は大阪城残石、繕われた足袋の裏にある。
河野家住宅は愛媛県の南、小田町の深い谷脇の奥まった急斜面にへばりつくように建っていた。
主屋は入母屋造茅葺(いりもやづくりかやぶき)の屋根を下屋まで葺き降ろしにしてある。
土間脇にチャノマ、その奥にザシキをとる二間取りである。部屋の床は、すべて竹を敷き、各部屋にイロリが切られ、寒い山間の住い方を示している。土間には和紙の原料にする楮(こうぞ)を蒸すクドがあり、その上に大きな桶が吊り下げられている。この家の建築年代を示す資料は無いが、他の家では見られない古い形式、手法が使われており、18世紀前半ごろの建築と推定される。南予地方を代表するすぐれた民家である。
楮(こうぞ)蒸しについては後述する。
ちから石
昔の若者が力比べに使っていたのかな?
今のような娯楽のない時代、若者たちの笑顔や困った顔が目に浮かぶね。
管理人は持ち上げることができると思うんだけど、カメラを持っているから今日はやめとくよ~
砂糖〆(しめ)小屋
サトウキビを石臼で搾汁する砂糖〆小屋は3つある。
江戸時代後期、砂糖は讃岐の特産品だった。
薩摩の黒糖に対して、讃岐は白糖の生産で日本一を誇った。讃岐平野にサトウキビ畑が広がり、搾汁のための砂糖〆小屋が点在した時代だった。
円形の砂糖〆小屋は四国にこの2棟しか現存しない。円錐形の屋根や垂木の組み方、曲面の大壁などが特徴である。右のものが慶応年間(1865年頃)、左が明治初年の建造とみられる。内部には3個の石臼があり、牛が腕木を引いて回した。牛は1日中間断なく回り、柱にはその腹でこすられた跡が見られる。建物が円形なのは牛の回転にあわせたものだろう。
方形の1棟は瓦葺、間口奥行きとも四間(約7.2メートル)、地域の有力者が建てたもので構造も堅固である。釜屋では絞られた砂糖生汁を煮沸し、アクをとって純度を高めてゆく。釜屋も現在では希少である。
方形の砂糖〆小屋の石臼はどうやって回したんだろ?
これも次回調査だね。
四国村の記念碑
四国村のことが描かれた石碑を発見。
四国の山の中に農家があり、海辺に漁師の家があって、人々はそこで貧しくとも確かな生活を送ってきました。
時代の波は、私たちの先祖の家も生活様式も忘却の彼方へ押し流しつつあります。
民家はそれぞれの地方の身分証明書であるといいます。その証明書を失ってはならないと考えてできたのがこの四国村です。
村の建設には、まず土地が提供され、民家の研究家、文化財専門家の鑑定考証がなされ、そして大工、左官、屋根師、石工、庭師たちがこの地に巧みな技術で、四国の身分証明書を復元してくれたのです。
この碑は、旧下木家、旧河野家が昭和57年2月16日、重要文化財として国の指定を受けたのを機会に、これらの人々の努力を称え、その功績を記念して建立したものです。
彫刻家「流政之」氏のお名前がしっかり入っている(^^)
釜屋
「砂糖〆小屋」で絞ったサトウキビを煮詰める小屋。
手前の「アラガマ」に汁を入れ、中央の「ナカガマ」に移し入れ、最後に奥にある「アゲガマ」で汁を煮詰める。
3つの釜で、4~5時間かけて不純物を取り除く作業を行う。
徳島県美馬郡の猪垣
前述の小豆島の猪垣とかなり違うね。
『その地方の附近で得やすい材料を巧みに利用した生活の知恵をしのびながらご覧いただきたい。』とあった。
なるほどなるほど。
徳島県美馬郡の山林にあったもので、浜辺にあった小石を集め積み上げて作られたものです。
イノシシやシカは、畑に入ろうとして、周囲をぐるぐる廻るので、猪垣の根元に「陥穴(おとしあな)」をほって生捕り、その肉を「薬喰い」といって喰べていました。
一石二鳥の工夫です。
イノシシさんはおいしいからね・・・
茶堂
四国の古い道沿いに、こうしたお堂があちこち建っていた。正面に仏様をまつり、三方は吹き抜け、五寸角の栗材の柱の状態や、落書きなどから19世紀中頃のものと推定される。
はじめ村の入り口に悪霊払いの意味で建てられ、のちお盆や地蔵盆、弘法大師の命日などに道を通る人に湯茶などの接待や、お遍路さんの休み場にもなった。また村人の集会や男女の密会にも利用された。
この堂は土佐から伊予へ越す龍王街道と呼ばれる道にあった。土佐脱藩士の通路にあたり、坂本龍馬もこの道を通ったか、あるいはこの堂でひと休みしたかもしれない。
石仏は流政之氏の力作である。
瀬戸内寂聴尼によって開眼され、「遊庵」と命名された。
四国村ギャラリー
安藤忠雄氏設計の四国村ギャラリーは写真撮影禁止で残念。
中には流政之氏のミカゲ石でできた「夜のてざわり」(1973年)があった。
とても素敵な作品だったんだけど撮影できず・・・でもしっかり鑑賞してきた。
しかしピカソやロダンの作品も展示されていてビックリ。
さらに猪熊弦一郎氏と流政之氏、瀬戸内寂聴さん3人が1枚の写真に!
猪熊弦一郎氏の手記があったのでご紹介しておこう。
生きている四国村
画家
猪熊弦一郎
私は高松市生まれ(明治35年)であるから、幼い頃の思い出がそのままに、屋島山麓の四国村が出現した事はまったく言葉では言い尽くせない程の親しい心からの悦びである。
先年開村の祝賀式に私達夫婦がお招きを受け、その式に参加させて頂いたが、山の斜面に段々と、並び建てられた一つ一つのわら屋根の家は、まったく美事に出来上がっており、そのものずばりの本物だからどの建物を見ても作り事でなく、私達の幼い頃は、いたる所にあのとうりの家が建っていたのであるから、懐かしさは一層である。
特に、これ等家々の中で円形の家が建てられているが、これは今の鴨川から国分あたりが一面の砂糖きび畑で風の日等、緑の大きな海の波の様な動きの中にこの丸いわら屋根の家が燈台の様に点々と建っていた風景を忘れる事が出来ない。その頃から5、60年過ぎているから鴨川地方の若い方々は知るよしもない。私達が、四国村を拝見した時、この砂糖きびしぼりの小屋をどこから加藤さん(当時の村長)が探されたのか、びっくりしてしまった。この家達は一つ一つきれいに当時そのままのテクニックで、わら屋根を作り上げているのにも驚いた。屋根のエッジを、厚くキチンと切り立てた、屋根全体の造形美は、今時出来る人が残っていたのか、そんな職人を見つけるだけでも大変だったと思われた。
アメリカにある、ウィリアムスバーグの様に全体が復元されたものではなく、柱一本でも当時の明治以前からの民のものであったから、一つ一つが、今も息をしている。なぜてやりたくなる。これ等の木に「よく、永く、生きていたね」「いい人に救われたね」と言いたくなる。これで老齢を又一廻りも二廻りも、永生きさせる事ができる。そして違った場所からやって来たこれ等の家達が、仲良く当時の若かりし日の事を語り合っているかに見える。どこもかしこも手作りのこれ等の芸術作品をよく見ている間に、人間の本源に探り当る様な気がする。
私は又ゆっくりその後の安定した姿を拝見に行かねばならぬ。大きな野外の建築ミウゼアムよ。がんばってくれ。
安藤忠雄氏設計の建物の中で、ピカソやロダンの作品が並び、憧れの流政之氏の作品を横に、猪熊氏、流氏、瀬戸内氏のとてもいい顔で写っている写真をみながらこの手記を読んだら、涙が出てきた。
何と優しい方々なのだろう。
胸が熱くなって心地いい時間が続いた。
※2019年追記
瀬戸内国際芸術祭2019の作品を見に来た時、四国村ギャラリーで猪熊弦一郎展を行っていた。
その時撮影の許可を得たので掲載する。
▼左端に村長、猪熊夫妻の間に瀬戸内寂聴さん、猪熊弦一郎氏の後ろに流政之氏!
削っている部分、イサム・ノグチ氏にインスパイアされたようだね。
ロダンさんの作品もあったよ。
係の方が、「今回に限り撮影可能です・・・」とのこと(笑)
ありがとうございます!
丸亀市にある猪熊氏の美術館ではすべての作品が撮影可能だから、作者サイドの意向で撮影の可否が決まるもんなんだね。
安藤忠雄氏の「水景庭園」
ギャラリーの外には安藤忠雄氏の「水景庭園」があり、これは撮影可とのこと。
あ、淡路島の安藤氏の設計「夢舞台」のよう。
奥はバラ園なんだけど、この時期は咲いていなかった。
あのベンチに座ってお弁当を食べたい。
水の音、安藤ワールドに癒された。
カンカン石
讃岐(香川県)のサヌカイト、カンカン石。
ドイツの地質学者バインシェンクにより、安山岩のアンデサイトと讃岐をもじってサヌカイトと命名された。
香川県坂出市の国分台だけ産出する珍しい岩石なのだ。
とてもいい音を奏でる。
香川県庁21階展望室や屋島の頂上にあるお土産屋さんでも音色を聴くことができる。
順路を進んで行こう。
▼順路が分岐していて、右の通路は出口までの近道で楮蒸し小屋まで飛ばして行くことができる。
左に進むと順路。
大久野島灯台
大久野島は広島県竹原市の沖合に浮かぶ周囲4キロメートルの小さな島である。この灯台は明治26年島の南端に建設され、よく27年5月15日に初点灯した。
光源は当初は石油によったが、大正14年からアセチレンガスが使われ、昭和11年からは電灯にに替わった。
明3秒暗3秒、光は13.5海里(約25キロ)先まで届き、三原瀬戸の要所を照らした。戦争中、軍事機密のために大久野島が地図から消されていた時期がある。
この灯台はその暗い歴史を見守り続け、平成4年老朽化のため建て替えられることとなった。
長い間、お疲れさまでしたね。
旧江埼燈台退息所
ここから3つの退息所が続くよ。
退息所(たいそくしょ)の由来
”おいら岬の燈台守は・・・
の主題歌が全編に流れる映画「喜びも悲しみも幾歳月」
さいはての岬や絶海の孤島で燈火を守り、沖行く船の安全を支えた燈台員とその家族の哀歌は、この映画によって広く世に知られることとなった。退息所とは彼等の苦労がしみこんだ住居である。
わが国の様式燈台の初点灯は明治2年元旦(1869)、東京湾の入り口に当たる観音埼燈台である。江戸幕府が米、英、仏、蘭と結んだ条約により燈台を設置することとなり、事業は明治政府へと引き継がれた。
いわゆる「お雇い外国人」の指導のもとに建設の第一歩を踏み出した。中でも英国の技師R・H・ブラントンは合わせて28基の燈台を設計・監督し、「日本の燈台の父」と呼ばれている。瀬戸内ののどかな島に、工事のために訪れた黒船と碧眼紅毛(へきがんこうもう)の異国人に島民は驚き、長老は裃(かみしも)を着用し刀を携え出迎えたと紹介されている。
時は流れ、昭和30年代になって、燈台は次々と無人化されていった。人々の喜びや悲しみを見守ってきた退息所はその役割を終え、こうして四国村に移築されることとなった。
レトロで素敵な部屋だね。
江崎燈台は瀬戸内海の難所といわれる明石海峡を望む、淡路島の北端にある。英国の技師R・H・ブラントンの設計により、明治4年(1871)に点燈した。わが国8番目の洋式燈台である。
退息所は石造で、壁体は奥行き60センチ程の切り石を積み、木造トラスで桟瓦葺(さんがわらぶき)の屋根を支えた重厚な建物である。間取りは中廊下式で、多くは畳敷きの部屋になっている。
平成7年(1995)1月の阪神・淡路大震災により、石造の壁体に大きな亀裂が入り、屋根瓦が落下するなど大きな被害を被った。当四国村はこの建物を移築し、復元保存をする措置をとった。
この退息所は、本格的な石造建築であり、建築当初の木造トラスを残すなど、洋式燈台の黎明期の貴重な建物である。
旧鍋島燈台退息処
あ、角松さんと一緒に撮ってあげればよかった・・・
鍋島灯台は坂出市の沖合い、鍋島にあった。江埼灯台と同じく英国の技師R・H・ブラントンが設計した洋式燈台で、初点灯は明治5年(1872)である。
職員宿舎の退息所は翌6年2月に竣工した。この建物は昭和30年(1955)頃まで本来の宿舎として使用されてきたが、その後は海上保安部の通信施設となっていた。
建物は石造で、正面に円柱6本を建てて吹きはなしとし、壁は奥行き60センチ程の切り石を積み、桟瓦葺(さんがわらぶき)の屋根の重厚な建物である。間取りは中廊下式で、暖炉のある部屋、畳敷きの部屋などがある。また、外側に浴室や便所が張り出している。付属の物置も同様の石造である。
この退息所は、本格的な石造建築であり、正面に円柱列を建てるなど記念性を表しており、洋式燈台の黎明期の貴重な建物である。
旧クダコ島燈台退息所
ここの入り口も洒落てるね。
クダコ島燈台は愛媛県松山市の沖、クダコ水道にある。明治35年(1902)7月に着工、翌年3月に竣工、初点灯した。燈台の無人化にともなって、この退息所は不要になったので、当四国村に移築して復元した。
この建物はレンガ造りで、外壁がモルタル仕上げ、屋根は桟瓦葺である。内部は左右二つに分け、二家族用にし、押入れ付き和風の部屋が配してあり、かまどもある。また、付属する物置も退息所と同じ構造である。
この退息所は明治後期の建築であり、部屋も和風の要素が強くなっている。洋式燈台初期のものとは幾つかの点で異なり、わが国の燈台建築の変遷を知るうえで貴重な資料である。
下の楮蒸し小屋に行く前に遊歩道があり、さまざまな花が咲くんだけど今回何も咲いていなかったので飛ばそう。
今後撮影し更新したいと思う。
遊歩道
6月に行った時に遊歩道を歩いた。
紫陽花が咲き始めていた。
見頃になれば広範囲な紫陽花谷になるだろう。
香川県の特産品、枇杷(ビワ)もたくさん生っていた。
楮蒸し小屋(こうぞむしごや)
土佐は高級和紙の産地である。伝統の和紙づくりのため、楮(こうぞ)や三椏(みつまた)を釜の上に積みこんで蒸すのが、この小屋である。
寄棟造茅葺で間口3間奥行き2間。かまどのつくりと大桶フタの上げ下ろしの装置が特徴になっている。
紙づくりは、切りそろえた楮や三椏を束にして釜を立て、上から桶をかぶせて蒸す。取り出して皮をはぎ、黒皮を取り、水にひたした白皮をモチにして叩解棒(こうかいぼう)でたたく。最後に水に入れてすくいあげ、紙にすく・・・という手のかかる作業であった。
先に進むとスイセンの谷。
もうちょっと咲く時期に来たいね。
旧下木家住宅(重要文化財)
昔、家で使われていたボン、椀などは木を削って作られた。それらを作る人々を木地師といった。彼らは欅(けやき)や樫(かし)などの豊富な土地を点々と移住し生活をしていた。やがてその木地師たちが定着し、造った村が「木地屋」である。
この家は「安永十亥丑三月吉辰日」(1781)の棟札があり、上場梁(じょうやばり)、下屋梁(げやばり)に穴をあけ1本の柱を通すという「おとしこみ方式」で組まれている。この方式は一宇村(いっちゅうそん)の大工が元祖といわれ、丈夫である
奥の間の佛壇の前の床は小さく開くように作られ、家人が死んだとき、湯灌(ゆかん)の水をそこから床下に流して、魂が家の中にとどまることを願った。また床下には、いも、こんにゃくだま等を貯蔵する大穴が5つ掘られている。
当時の生活が目に浮かんだ。
添水唐臼(そうずからうす)
これは面白かった。
大きな鹿威しみたい。
左側に水が流れ込み、たまると左が下がって水が抜け、右側が臼をつく。
穀類を精白するために臼に入れて杵で搗く(つく)方法は、古くから行われていた。のち足を使う唐臼で搗くようになり、やがて水力を利用した水車に変わってくるのであるが、水車には相当の水量が必要であり、製作も大仕事で思うにまかせなかった。
当時、水が少ないところで個人または、隣近所が共同利用したのが添水唐臼で俗にソウズと呼ばれていた。誰にでも簡単につくることができ、水が少なくても時間をかけると精白が出来る貴重な道具で各地で使われていた。これは昭和30年(1955)頃まで徳島県一宇村(いっちゅうそん9に残っていた唯一の遺構を復元したものである。
久米通賢先生旧宅
江戸時代から、讃岐は塩どころとして知られていた。全国の潮の生産量の半分近くを占めていたのが、坂出塩田だった。その基礎をつくったのが、久米通賢である。
彼は通称、栄左衛門。安永3年(1774)、東讃岐の引田町馬宿で生まれた。測量術にすぐれ、軍船、大砲、撃発式ピストルから扇風機まで発明した。藩に登用されたのち、坂出塩田を大規模なものに開発した功績は大きい。
この主屋は通賢が建てたもので、寄棟造茅葺、下屋桟瓦葺24坪(移築前)。主屋の解体に当って天井裏から、測量器具、大砲の鋳型などが発見された。土蔵、細工場などは全壊していたが、通賢の名を残すため関係者の了解をいただき、休憩所として新しく改造再建した。
平賀源内とともに、讃岐を代表する江戸時代の科学者の自宅が残っているのは興味深い。
進もう。
旧中石家住宅
お、どなたかいらっしゃるよ。
鍋を作っているのではないそうだ。
天井を燻して虫がつかないようにしているのだとか。
この作業をしないと虫に食われ、葺き替えに数百万円かかるそうだ。
しかし囲炉裏、趣があるね。
平家の落人村として有名な祖谷の民家である。平国盛の子孫といわれる阿佐家に近く、けわしい山膚に、しがみつくように建っていた。主屋18坪、隠居屋13坪半、納屋8坪、いずれも茅葺の葺き降ろし。18世紀後半の建物とみられる。
主屋、隠居屋、納屋が一列に並んで建ち、祖谷の民家の特徴をあらわしている。主屋、隠居屋は土間のない二間取り。納屋は中二階で一階は牛小屋になっている。部屋にイロリがとってあるのは、寒い祖谷地方の特色。
父親が隠居して、長男に世帯をゆずると、隠居屋に移り住んだものである。
出入りが楽にできるよう、低く作ってあるんだって。
流政之氏の「染が滝」
▲流れ出る向こう側には前述の旧下木家が見える。
流政之氏のこの作品を見たくてここに来たのだ~
▼その旧下木家の前、流れ出ている部分から作品が始まっている。
滝の音が村内を駆け巡り、ずっと聴こえている。
この池には古代ハスが咲く。
咲いたらまた見に来よう。
旧丸亀藩御用蔵(県指定有形文化財)
この建物は、もともと丸亀藩御用の米蔵で。金毘羅参拝絵図にも太助燈籠と共に描かれている。
内部の柱の一部にある「甲文政七申(1824)讃州那珂郡榎井村住人村井政太郎 乙文政酉正月(1825)云々」と云う墨書きによって、江戸時代後期の建築であると思われる。また米俵の数取りに使った「玉」の字等の落書きも見られる。
米蔵は二段の布石の上に建ち、桁行八間梁間四間で屋根は切妻造、本瓦葺である。建物の規模は壮大であり、高い海鼠壁(なまこかべ)や正面へ付けた四つの戸口、その廂(ひさし)と二つの格子窓は単調な壁面に快い年化を与えている。力強いなかにも美しい構成をもった米蔵である。
中は人形浄瑠璃、農村歌舞伎の展示コーナーとなっている。
三崎の義倉(みさきのぎそう)
この建物は「三崎の義倉」と呼ばれていたもので、江戸時代の文政2年(1819)に庄屋の沖市左衛門らが設置した。
義倉とは平時に稲や麦を貯蔵しておいて、飢饉の際には種籾や食料の補助として支給する制度である。奈良時代にはすでに制度化されていたが、その後廃絶した。しかし江戸時代になって再び復活し、各藩に設置されるようになった。
この義倉は昭和15年(1940)頃まで機能していた。しかしその後維持管理が困難となり、ここに移築復原されることになったものである。
制度としては良く知られているが、その建物が保存されている例は極めて稀で、当時の農民の暮らしや、生活史を知るための貴重な文化財である。
福井家石倉とアーチ橋
▼順路はアーチ橋をくぐって進んでいく。
昔のこんぴら街道沿いにあったこの石蔵とアーチ橋は、国分寺町鷲ノ山産の石(角閃安山岩)で造られている。この石は、古墳時代には畿内に運ばれ、石棺にも使われており、「石舟」の地名の由来となっている。
石蔵は、明治中頃に造られたもので、四国では大変珍しく、当時としてはぜいたくな煉瓦を床に張ったモダンな建物である。今でも全く狂いがなく技術的にも卓越した石工の作品である。
アーチ橋は「明治34年(1901)石工兎子尾(としお)与次郎・米吉」が建造したとの銘が頂部の楔石(くさびいし)の下面にある。楔石の正面には彩色した鯉と唐獅子の彫刻があり、この様な例はめずらしく全国的にも注目されている。
醤油蔵・麹室(こうじむろ)
讃岐の醤油造りは、文化年間(1810頃)に小豆島を中心に興り、東讃の引田、西讃の仁尾などの地域で盛んになった。香川県は明治中期から昭和10年代にかけて、全国第2位の生産石数(こくすう)をあげていた。
ここに移築復原された醤油蔵2棟と麹室は、いずれも大川郡引田町の醸造家で長年使用されてきたものである。建物の一部には18世紀後半頃と見られる梁材などがそのまま使われている。
今では醤油蔵も近代化し、古い時代の醸造用具は殆ど姿を消したが、この蔵では天保9年(1836)に作られた仕込桶や、押槽(おしぶね)など昔の用具を使って醤油作りの作業場を再現した。
消防屯所・警鐘台と小豆島の石蔵
この警鐘台は、もともと護衛空母「しまね丸」の無線マストであった。
しまね丸は、全長1605メートル、幅20メートル、排水量20469t、速力18.5ノットの大型油槽船(タンカー)で、輸送船としての能力を残しながら飛行甲板を取り付けて、対潜哨戒機の発着を可能とした民間籍(石原汽船)の空母であった。
昭和20年2月28日、神戸の川崎重工で完成後、使用の機会のないまま動燃4月3日志度湾の長浜沖に隠された。
ここのろから本格的な連合軍の空襲が始まり、7月4日は高松空襲、次いで7月27日にしまね丸は4隻の英空母機の集中攻撃を受け二つに折れ沈没した。
終戦後の昭和23年、解体引き上げられることとなり、その際、地元の有志がマストを貰い受け、警鐘台として活用してきたものである。
尚、警鐘台下方部には、攻撃を受けた際の弾痕がみられる。
この地区出身で大阪に出て事業に成功した藤原平太郎氏が大正4年(1915)2,297円87銭5厘ナリで建造した石の蔵。
藤原氏は公債14,000円を村へ寄付し、それをこの中へ入れて保管した。この公債の利子で北浦村の財政をまかない村民税は大いに軽減されたという。
茨城県稲田産の花崗岩を降り寄せて造った。かつて天皇のお写真を入れた奉安殿を思わせるような、がっちりとした建物である。14,000円は平成9年の貨幣価値に換算すれば、約4,000万円相当であろうか。当時は物価の安い時代であったから、金銭は数字以上の価値があった。
切石積、鉄扉両開、軒蛇腹付陸屋根(ろくやね)の異色の建造物である。
旧前田家土蔵
高知市布師田(ぬのしだ)に、明治初期に建てられた、特色のある土蔵である。間口三間、奥行き二間、壁に七寸の厚さに土を塗り、その上を漆喰で仕上げてある。屋根は鞘屋根といって二重になっており、近所の火事の火の粉や、大雨から土蔵を守っている。
高知は全国でも有数の多雨地帯である。周囲の壁面に三段の水切がついているが、これは単なる趣味的な装飾ではなく。横なぐりの雨水が壁面をいためるのを防ぐ用をしている。高知には石灰岩の産出が多く、したがって漆喰は特産であり、その技術も高い。これらのことが相俟って水切土蔵がつくられたのであろう。
土蔵入り口についているのは、番屋とよばれ、隠居屋と離れ座敷をかねていたために立派で大きい
このような土蔵は平野部に多く、漁村や山間部ではあまり見られない。
旧丸亀藩斥候番所(せっこうばんしょ)
この建物は、香川と愛媛の県境にある箕浦の港に面して建てられていた。
讃岐と伊予の国境のこの辺には藩政時代に二つの番所が置かれていた。そのうち地元民の詰めていた斥候難所がこれである。
屋根は寄棟造、鬼瓦や軒丸瓦には、丸亀藩主京極家の家紋がついている。建物の中は、土間を含めて表側と裏側に二分した形になっていて、民家とはかなり違った間取りである。この家の屋根の下地は奥の座敷のみ杉皮を使い、他は筵(むしろ)になっているのも面白い。
建築年代は明確ではないが、18世紀末頃かと思われる。
表に立てられた石柱には「讃州豫州境従是東丸亀領」、裏面に「従丸亀是迄八里拾七町」と刻まれている。
旧吉野家住宅(漁師の家)
伊座利地区は太平洋に面し、断崖の下に孤立した集落であった。
この家は切妻造本瓦噴12坪。軸組などの部材はすべて手斧(ちょうな)で削られ梁と大黒柱は特に頑丈に造られている。土間はせまく、上り端(あがりはな)の床は漁で濡れた着物や道具の雫を落とすため竹のすのこ張り。周囲の石垣は強風を防ぐ役目をしている。これらは生活の中から生まれた、この地区の漁師の家の特徴である。
昔、この付近鰤の大敷網があった。よそから網元が進出してきて大量が続いた。大枚の金を持ち帰るのを見て、地元の漁師が奮起した。借金をして大網を張った。ところが不運にも、この年から不漁続きとあって、大損をした。他の区では、みな住宅の改築をしたのに、ここだけは昔のままの漁師の家が残り、いまは貴重な文化財となった。
▼床の間の鏡餅には伊勢エビが飾られている。
なんか神棚に魚が吊るされている。
干した魚だね。
吉野家があった徳島県由岐町は、古くから漁業が盛んでした。この地域に伝わる「掛けの魚(いお)」(神棚の飾り)は、2匹1対の魚を藁で結び、12対の魚を神棚に吊るします(閏年の場合は13対)。魚は、カツオ・アジ・イワシ・タイ・サバなど地元で採れる魚を使います。また、床の間に供える鏡餅は、長寿の象徴である伊勢海老を添えていました。
異人館
四国村を出ると目の前には異人館。
ということは異人館での飲食は、四国村に入らなくてもいつでも来ることができるわけだね。
この建物は、明治38年(1905)、英国人ワサ・ダウン氏の住宅として、神戸市生田区北野町に建てられ、昭和19年から日本郵船(株)の船員寮として改造、使用されていたものです。
四国民家博物館建設にあたり、日本郵船の特別なご好意で寄贈され、神戸市教育委員会のご理解とご指導によって、最初の姿に復原移築されました。
最後に癒しの空間。
四国村に入村すると100円引き券をもらえるので有効に使おう。
おみ家
お土産屋さん。珍しいものもいっぱいあったよ。
わらや
最後は水車のある藁葺のうどん屋、わらやさんで釜揚げを食べよう。
先に会計を済ますシステム。
席に着くと出汁、薬味がやってくる。
四国村でレトロな気分に浸り、藁ぶき屋根の下で食べるうどん、心身ともにあったまる~
大人気店で香川県内外からのお客さんが大行列。
でも大丈夫、讃岐うどんの行列はすぐに進むから。
まとめ
かなり長いレポートとなった・・・
とても素敵なスポットなのだけど、入場料が1,000円と少しだけお高いからなのか、来場者が少ない。
私が言いたいのは、1,000円以上の価値があるということ。
年間パスポート3,000円を次回購入することにした。
CanonEOS-M10と15-45mmズームレンズはよく働いてくれたよ。
またすぐに来る。