高松市十川東町「十河城址(称念寺)」は難攻不落の城だった。
土佐(高知県)の「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」さんは戦国時代から安土桃山時代の戦国大名。
長宗我部さんは織田信長さんや豊臣秀吉さんと戦いながら、四国を統一を目指していた。
そしてその歴史を勉強していると興味深いお話が出てきたのでご紹介するよ。
▼十河城址(称念寺:しょうねんじ)
長宗我部さんが香川県高松市にある十河城(そごうじょう)を攻めたお話に興味が湧いた。
現在、十河城は存在せず、称念寺というお寺になっている。
長宗我部さんは四国征服を認めなかった織田信長さんと対立する。
本能寺の変(1582年)で信長さんが亡くなって危機を逃れる。
1582年8月、長宗我部さんは十河城に攻めてきた。
織田信長さんが亡くなったのが同年6月なので、ここぞとばかりに来たんだろうか。
十河城の城主は十河存保(そごうまさやす)さんなんだけど、当時は不在で、家老の十河存之(そごうまさゆき)さんが代行していた。
不在だった十河存保(そごうまさやす)さんは徳島県板野郡にある勝瑞城で同じく長宗我部軍と戦っていたんだけど敗戦。
東かがわ市にある「虎丸城」に逃げていた。
長宗我部さんが攻めてくるという情報をキャッチした代行の十河存之さんは兵を1000人に絞り、食料と武器を溜め込み籠城をする。
(高松)市史跡「十河城址」
東西の谷地形に挟まれた舌状の台地上に所在し、南に大手を設け、他の三方は湿田に囲まれ、五重の土塁と深く切り立った堀があり、攻め入る隙がなかったと言われている。称念寺のある約60m四方が主郭で、西と北側に腰郭の平坦地は附属している。北側に空堀を造り、土橋で北の郭とつないでいる。南北朝時代からの十河氏の居城だった。
十河氏は神櫛王(かんぐしおう)の末裔で、植田氏の一族と伝えられている。天文年間(1532~1555)には阿波の三好長慶(ながよし)の弟一存(かずまさ)を養子に迎えた。一存は「鬼十河」と恐れられた猛将で、畿内各地で戦い、讃岐でも勢力を拡大した。後を継いだ存保(まさやす)も三好家からの養子であり、讃岐の旗頭として活躍した。
天正13年(1585)豊臣秀吉による四国出兵により、山田軍二万石は再び存保に与えられるが、翌年、九州の戸次川の戦いで敗死し、その後、子の千松丸も早世したことから廃城となった。高松市教育委員会
当初、長宗我部軍は1万の兵で、1万人対千人の戦いとなったわけだ。
織田信長さんや豊臣秀吉さんに喧嘩するほどの軍1万と、こんな田舎の、千人の軍が戦うって無謀だよね・・・
1回目の戦いでは最終的に3万6千人の兵力になったんだけど、十河城は落ちなかったんだよ。
お~かっこいい。
十河城の兵はゲリラ戦、忍者戦に長けていた。
加えて地の利もあった。
城に乗り込もうとする兵士を鉄砲で打ち、夜になると抜け穴から外に出て寝首をかき、食料を奪って城に戻るという戦法だったようだ。
また十河城の北にある前田城からの援軍もあった。
十河存保(そごうまさやす)さんは虎丸城から豊臣秀吉さんに使者を送り、十河城の救援要請を出している。
秀吉さんは淡路島の洲本城主「仙石秀久(せんごくひでひさ)」さんを救援に送ることにした。
冬になると疲れた長宗我部軍は撤退することになる。
十河城は攻略が難しい城だったわけだ。
そして戦は第2期に突入。
1583年4月、仙石秀久(せんごくひでひさ)さんが長宗我部さんを討ちに四国にやってくる。
千石さんは長宗我部さんの屋島城、喜岡城を攻めた。
しかしこれは長宗我部さんに軍配が上がる。
喜岡城は屋島の麓にあり、現在は喜岡寺になっている。
長宗我部さんは十河存保さんがいる虎丸城を攻めたけど、思うように攻略できず。
その後、仙谷さんが長宗我部軍の引田城を攻める。
そして長宗我部さんはここでも勝利。
豊臣秀吉さんが送った仙谷さんを討ち破る長宗我部さんもお強い。
小西行長(こにしゆきなが)さんも攻めてきたんだけど撃退している。
ここで、豊臣秀吉さんはさらなる援軍を送りたかっただろうけど、そんな余裕がなかった。
豊臣秀吉さんは徳川家康さんとも戦っていたからね。
そして、長宗我部さんは徳川家康さんに淡路島に侵攻するように言われる。
しかし十河城を落としていなかったため、その要望に応えることができなかった。
虎丸城から十河城に戻った十河存保さんと長宗我部さんの決戦が開始。
十河城を正面から落とすことができなかった長宗我部さんは、十河軍の寒川(さんがわ)氏、由佐氏を利用し、雨滝城など十河城の支城をすべて攻略する。
そして1584年にようやく十河城は落城。
約2年かかったわけだ。
織田信長さんや豊臣秀吉さんと渡り合って戦った軍と千人で始めた戦、善戦したよね。
近所にこんな誇らしいお城、舞台があったなんて意外。
称念寺はとてお静かなお寺で、城の面影はほぼなくなっている。
本堂の裏はお墓で、大きな池があった。
歴史と静かな境内が対照的で胸が熱くなった。