【前田城址】十河城を長宗我部元親の攻撃から援護した「前田城」
高松市十川東町に「十河城址」がある。
長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)さんが3万の兵が攻めて来た時、十河城はわずか千人で立ち向かった。
十河城は、織田信長さんや豊臣秀吉さんと渡り合うほどの力を持つ長宗我部さんをかなり手こずらせた城なのだ。
その十河城に援軍を送っていたのが、高松市前田西町にある前田城。
その前田城址に行ってきたよ。
現在は石垣が残っているのみ。
本丸跡地には前田さんのお墓がある。
市指定史跡
前田城前田城は立石山塊から南に伸びる低丘陵の尾根先端部に位置する。文明年間(1469~1487)に十河城主十河景滋(そごうかげしげ)の弟である前田頼母頭宗存(たのものかみむねまさ)が築城し、主殿頭宗春(とものかみむねはる)・甚之丞宗清(じんのじょうむねきよ)と続いた。
城は東西36メートル、南北52メートルの本丸とそのみなみがわの二の丸(現在の宝寿寺)で構成されている。本丸の周囲には土塁の痕跡が見られ、さらにその外側には空堀の痕跡が見られる。
三代甚之丞宗清は、弓矢等を携えたまま六尺(約1.8メートル)の堀も飛び越え、また弓の腕前は百発百中であるなど、その武勇は優れていた。天正10年(1582)の長宗我部元親の十河城攻めに際しては、敵に夜討ちをかけるなど活躍をしている。しかし2年後、再び押し寄せた長宗我部軍との戦いで討死し、前田城も廃城となった。高松市教育委員会
前田城址のすぐ南側には宝寿寺があったんだけど、お墓しかなかったよ。
さて、長宗我部さんは十河城を落として讃岐を平定した。
長宗我部さんは四国を統一した後は豊臣秀吉さんと全面対決になったわけだけど、やはり相手が悪かったね。
降伏し、土佐(高知県)のみを渡されることになる。
お~秀吉さんの強さ、寛容さがうかがえる。
以下は長宗我部さんが讃岐を平定するにあたり、関係した城。
▼虎丸城
▼長宗我部さんを討つよう豊臣秀吉さんに命じられて仙石秀久(せんごくひでひさ)さんが入城した引田城。
今後、仙石秀久さんがいた兵庫県淡路市の「洲本城」や、十河存保さんがいた徳島県板野郡の「勝瑞城」にも行ってみたい。
雨滝城(香川県さぬき市)など、十河城の支城についても調べよう(^^♪