世界遺産「仁和寺」にて「仁和寺にある法師」から学ぶこと
京都の世界遺産を巡る旅、今回は「仁和寺」。
本日は金閣寺、龍安寺、仁和寺と順番にまわってきたけど、バス利用では体力的に1日3つのスポットが限界だなと。
加えてお寺や神社は早めに閉まるしね。
今後の計画を立てる時の参考にしよう。
仁和寺は仁和4年(888)に創建された寺院であり、現在は真言宗御室派の総本山。
平成6年に世界文化遺産に登録された。
京都で道路に面したお寺って珍しいらしい。
仁和寺は応仁の乱(1467年)でほぼ焼失。
龍安寺も応仁の乱が原因で焼失したのだけど、すごい乱だったんだね。
※「応仁の乱」は最近では「応仁・文明の乱」と呼ばれている。
徳川家光さんの協力を得て、1647年に再建が完了した。
ところが明治20年(1887)の火災によりこれまた大部分を焼失・・・
昔は管理が悪かったのかね?
とにかく京都に来て歴史的な建造物はすべてそういう話ばかり。
消火の技術もなかったのだろうけど・・・
大正3年(1914)に再建されたのが現在の姿。
そう言えば奈良県にある法隆寺は世界最古の建築物だけど火災にあわず長持ちしているよね。
(厳密に言うと法隆寺は670年、落雷による火災で全焼したと日本書紀に書かれてある。)
ちなみにどこのお寺の五重塔も地震で倒壊したことは今までないそうだ。
耐震構造については科学的に分析されていない。
世界遺産仁和寺は、「金堂」が国宝、「五重塔」「御影堂(みえどう)」「観音堂」や、御殿内の「遼廓亭(りょうかくてい)」「飛濤亭(ひとうてい)」が重要文化財、「御室桜(おむろざくら)」は名勝に指定されている。
非常に価値の高いお寺なんだね。
まずは御殿を目指そう。
仁和寺は888年の宇多天皇から、慶応3年(1867)の小松宮が退任するまで約1000年もの間、皇室の寺院だった。
宇多天皇は899年、日本初の法皇となった。
廊下を進むとまずは白書院。
▼上の間の隣。
白書院は明治20年(1887)に焼失した時、仮宸殿(かりしんでん)として明治23年(1890)に建てられたもの。
襖絵は昭和12年(1937)に福永晴帆画伯によって描かれた。
▼宸殿は工事中だった。
宸殿の襖絵は大正2年(1913)に原在泉画伯によって描かれたもの。
黒書院の襖絵は昭和6年(1931)に宇多天皇1千年、弘法大師1千百年御忌の記念事業として堂本印象画伯によって描かれたもの。
黒書院前のお庭も素敵だったね。
飛濤亭(ひとうてい)、遼廓亭(りょうかくてい)は確認せず・・・
まさしく徒然草にある「仁和寺にある法師」になってしまっている・・・
(良く調べずに行き、後で後悔するということ)
▲左に切れて写っている門が下の勅使門。
金堂は現存最古の紫宸殿(ししんでん)として国宝となっている。
真言宗の祖師である弘法大師、仁和寺開山寛平法皇、第二世性信親王を安置している。
ツツジは春に咲くのだけど、仁和寺では12月と4月に咲くそうだ。
さらば仁和寺。
「仁和寺にある法師」に学んだよ。
次回、いや今日から「調べて行動する」ことにしよう・・・
御室桜が咲く時期にまた来たい。
参考までに「仁和寺にある法師」の一節を。
徒然草第52段
仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果たし侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。
すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。
(口語訳)
仁和寺にいた、ある法師が、年をとるまで石清水八幡宮をお参りしたことがないことを情けなく思い、ある時思い立ち、一人、徒歩でお参りにいった。(山麓の)極楽寺と高良神社をお参りし、(八幡宮へのお参りは)これだけだと思い込み帰路の途についた。
帰った後、傍輩に向って、「ずっと(心に)思っていたこと(八幡宮へのお参り)を果たせた。聞いていた以上に尊さ(八幡大神の御神威)を感じた。ところで、他の参詣者が皆、山へ登っていったが、何か山上にあるのだろうか。行ってみたいとは思ったが、お参りすることが本義であるからと思い、山上までは見に行かなかった」と言った。
小さなことにも、案内者(指導者)は欲しいものである。
※石清水八幡宮より
仁和寺から石清水八幡宮まで約20kmで、歩くと約4時間くらいだね。
▼仁和寺から岩清水八幡宮まで
道路も現在のように整備されていなかっただろうし、もっと時間がかかったかもね。
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