伏見城の戦い供養「養源院」にて「血天井」と「杉戸絵・襖絵」の緊張と和み

京都市東山区にある「養源院」は「三十三間堂」の向かいにひっそりとたたずむ。
切腹の血痕が残る天井「血天井」、国宝「風神雷神図」の作者「俵屋宗達」さんの「杉戸絵・襖絵」で有名なお寺。

養源院の正門

▲三十三間堂の塀から撮影

三十三間堂の塀

養源院の歴史は複雑だ。

文禄3年(1594)、豊臣秀吉さんの側室「淀殿」さんが父「浅井長政」さんの供養のため、秀吉さんにお願いして作ったのが始まり。
淀殿さんの本名は「浅井茶々(あざいちゃちゃ)」さん。
※「浅井」は最近「あさい」ではなく「あざい」が一般的になっている。

養源院表札

淀殿の父「浅井長政」さんは織田信長さんの妹「お市の方」と結婚されたお方。
1573年、最終的に織田信長さんと決裂しお亡くなりになっている。
二十一回忌の時に養源院ができたわけだ。

浅井長政さんの生涯は割愛するけど、筋を通されるお方だったようだ。
※だから織田さんと対立してしまったんだ。

養源院石畳

元和5年(1619)に焼失したんだけど、元和7年(1621)に崇源院(淀殿の妹)さんのはからいで再興。
この時、「血天井」が作られ、俵屋宗達さんの「杉戸絵・襖絵」もできたそうだ。

伏見城の戦い(1600年7月)において徳川家康さんの家臣約1,000人が城を死守し、最終的数百人が自刃した。
その血が付いた床を養源院の天井にしたのが「血天井」である。
※この時の床は養源院だけに使用されたのではなく、他にも使用されている。

徳川家康さんは家臣を弔うために再興し、俵屋宗達さんも弔いたいという想いで杉戸絵・襖絵を描かれたそうだ。

▼伏見城については以下をご参考に。

▼血天井、杉戸絵・襖絵のある本堂

養源院本堂

ばっちり三葉葵。
※後日上賀茂神社で「葵」のことを知る。徳川家の三葉葵は上賀茂・下鴨神社からいただいている。

さて、中に入ると写真撮影禁止で、ガイドさんについてまわる方式。

血天井の血痕はかなりリアル。
人の形など、どのような倒れ方をしていたかが何となく分かる。
血の手形はものすごく分かりやすい。
身の引き締まる思いで思わず唾を飲む。

緊張感が高まった頃、俵屋宗達さんの杉戸絵・襖絵の説明で気持ちが和らぐ。
※入場した状況でどこから説明が入るかその都度決まるので、杉戸絵の説明から始まる場合もあるので・・・

当時俵屋宗達さんは無名だったんだけど、この仕事を通して有名になったんだって。

架空の動物である唐獅子、麒麟、白いゾウの杉戸絵、『金地着色松図』という襖絵が来場者を和ませる。

『金地着色松図』は風神雷神図のようなテイストだけど、杉戸絵は何回見ても飽きない。
不思議な絵で、よく見ていると何となく顔がほころぶというか不思議な魅力に引き込まれる。

養源院ができた由来がそう感じさせているのかもしれないね。

しかし養源院には庭園があるそうだけど、まったく分からなかった・・・
調査中だよ・・・