高松市錦町「生駒親正夫妻墓所」

高松市錦町「生駒親正夫妻墓所」

生駒親正さんは高松城・丸亀城を建てたお方。
さらに秀吉さんに重用される立派なお方。

お家騒動で松平さんと替わってしまったんだ。
お家騒動は、生駒家の決まり事、切ってはいけない松を切った、とのことで内部告発により失脚・・・

高松は松平家にまかされるようになったわけね。

もし生駒さんがずっとやっていたら松平賴重さんは京都に配属されていたと推察。
そうなると栗林公園は現在のようなかたちではないだろうね。

前置きが長くなった。

弘憲寺とお食事処まつおか
お食事処まつおかさんに来たんだけど、生駒夫妻にご挨拶をしないとね。

弘憲寺

弘憲寺説明

生駒親正公墓所

生駒親正公は、天正15年(1587)領主として讃岐入り。翌年から黒田如水らの設計により高松城を築き、商工の民も招いて現在の高松の基礎を造りあげました。さらに丸亀城も築きますが、慶長8年2月13日没。
一子一正公が法勲寺をこの地に移し、親正公の謚号(しごう)を以て弘憲寺と改めて葬られました。

弘憲寺のサクラ
桜がきれいに咲いていた。

弘憲寺の生駒親正墓所案内

弘憲寺の生駒親正墓所
生駒親正夫妻、安らかにお眠りください。

弘憲寺の生駒親正墓所説明

県指定史跡 生駒親正夫妻墓所

生駒親正は大永6年(1526)に美濃国(岐阜県) で生まれ、織田信長・豊臣秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦い等で活躍し、天正15年(1587)に秀吉から讃岐一国が与えられ、翌16年(1588)に高松城を築城した。秀吉の晩年には三中老の一人として、秀吉政権下で重要な役割を担っていた。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍につき、丹後田辺城攻めを家臣に命じたが、子の一正は東軍についた。これにより、親正は剃髪し高野山に入ることになるが、一正に改めて讃岐一国が与えられた。その後親正は高松に帰り、慶長8年(1603)に亡くなった。

向かって右が親正の墓で、高さ約3.2メートル、左が夫人の高木氏の墓で、高さ約3メートルを測る。いずれも凝灰岩製の五輪塔である。

親正公 海依弘憲大禅定門

慶長8年2月13日卒 78歲

奥方 高木氏 花渓宗鮮大禅定尼

慶長14年11月3日卒

高松市教育委員会

私は近くを通ったら時々お参りしている。

・公式サイト
【住所】香川県高松市錦町2丁目4