桔梗咲く「智積院」は庭園が素敵
京都市東山区にある智積院は、真言宗智山派の総本山。
真言宗は弘法大師空海さんにより開宗されたんだけど平安末期に衰退化していく。
覚鑁(かくばん)さんが高野山(和歌山県)で真言教学を再興した。
覚鑁さんは教義上の対立で根来山に移動し根来寺(ねごろじ)を建てた。
智積院は根来寺の塔頭寺院だった。
智積院はもともと和歌山県にあったわけだ。
そして根来寺は豊臣秀吉さんと対立し、1585年に焼き払われてしまう。
当時、智積院の住職は玄宥さんだった。
徳川家康さんは豊臣秀吉さんを祀った京都「豊国神社」の附属寺院や、豊臣秀吉さんが建てた京都「祥雲寺」も玄宥さんに与えた。
それらが現在の「智積院」となった
覚鑁さんは仏教界と対立し高野山を去り、豊臣秀吉さんとも対立し焼き払われるって、過激なお方だったのかね?
しかし徳川家康さんは豊臣秀吉さん絡みのお寺を玄宥さんに与えているけど、壊された気持ちを思いやってのことなのだろうか?
随分あてつけのような気もするのだけど・・・
豊国神社、そういえば京都国立博物館の敷地内にあった。
次回行ってみたい。
京都国立博物館が大きく目立っているけど、負けないくらい三十三間堂と肩を並べて大きな「智積院」に行ってみよう。
名勝指定されている庭園がとても素敵なんだって。

ここからは入ることができない。

弘法大師空海さんがお生まれになって1250年なんだ。
香川県人だから知っているさ。
いざ智積院へ。

お、ななこ垣発見。

とても広い。
まっすぐ進むと金堂。

曲がって受付へ。

長谷川等伯さんの障壁画は国宝。
前述した祥雲寺を飾っていたものらしい。
興味深いのは、長谷川さんは狩野派に対抗して独自の画風を確立したお方。
残念ながら写真撮影禁止。
最初は狩野派の勉強をしていたんだけど、なんか違うぞ、になってしまったようだ。
雪舟さんに魅せられ独自路線に。
千利休さんと仲良くなり、それがきっかけで豊臣秀吉さんに認められた。
運命を変える出会いって大事。
特に花の描き方が特徴的で素敵だった。
ぜひ立ち寄っていただきたいね。
さて、名勝の庭園に行こう。

門をくぐると高浜虚子さんの俳句が。

「ひらひらとつくもをぬひて落花かな」
昭和5年に虚子さんが参拝された時の作。
「つくも」とは高さが1~2メートルの太藺 (ふとい)のことで、当時はたくさん咲いていたんだって。

暑いんだけどヒラヒラと涼し気。
講堂の裏側にまわると庭園が見えてくる。

随分高い築山だね。
▼正面に見えているのが宸殿、左が大書院。

大書院に入室。

おお、障壁画がきらびやか。

商用での撮影禁止になっていたよ。

右を見ると庭園。

素敵な手水鉢。

茶道では蹲踞(つくばい)といって、手水鉢に役石を置いたものを指すんだけど、蹲踞と言ってもいいんじゃないかな。

美しい。
さすが東山随一と呼ばれた庭園。
いっぱい写真を撮った。

ツツジが咲く季節に来たいね。



大書院の縁側に座ってしばし眺める。
大書院をぐるっとまわり、講堂に向かう。

▼布袋唐子嬉戯

大正元年、月樵道人さんの作。


雀さんが100羽描かれている。

は、これは一文字手水鉢。

豊臣秀吉さんは青蓮院に一文字手水鉢を寄贈していたけど、これは秀吉さんの好みなのかな。
(見た目が新しいから違うかな)
大書院から順路を通って講堂の縁側を歩くことができる。

ずっと気になっているこの布、ボタンの花かな。

金堂に行ってみよう。

桔梗の寺紋は加藤清正さんの家紋から。

実際、智積院では桔梗がいっぱい咲いていたよ、タイムリー。

斑入りの変わった桔梗。

加藤清正さんは豊臣秀吉さんの家臣で築城の名手。
前述したけど、ここの智積院は元「祥雲寺」。
豊臣秀吉さんが、3歳で死去した愛児鶴松ちゃんのために建てたお寺。
加藤清正さんがこのお寺を建て、立派なお寺ができたと秀吉さんは喜んで桔梗の家紋を使用したんだって。
智積院の住職に引き継がれたわけだけど、徳川家康さんのお気持ちはどうだったのだろうか興味深い。
金堂内は撮影禁止で外観のみ。
さて、ここはわが香川県、弘法大師空海さんゆかりのお寺。
大師堂にご挨拶に行こう。

あ、京都でもお会いできて光栄です。
また香川県でもお会いしましょう(^^♪

智積院、庭園がとても素敵だったので、ツツジの咲く季節にまた来たい。